藍色に暮れる町並みは
百年紀を経た絵画のよう。
遠い時代に思いを馳せる。
ロマンチックなひと時は、
旅を導く磁力を帯びて、
過去と未来のベクトルをつなぐ。
写真:元 圭一(Life Market)
五葉愚渓(ごようぐけい・1859~1944)。
だるまの書を描いたその人だ。大正の時代、臨済宗妙心寺派の管長となる愚渓和尚は、豊後国(現・大分県)に生を受け、わずか7歳で願成寺(現・願成禅寺)に入る。仏教徒としての生涯は広く知られるが、私の先祖が眠るその場所に、私の大叔父としてあったこと。それはロマンチックな回想にとどまらず、だるまを通して紐を解いた確かな事実であった。
町の夜
それから一年。二度目に降りた臼杵の町並み。一度開いた地図は元どおりに畳めない。旅が好きなら誰しも、再訪した土地に覚える親しみに似た感覚を知る。記憶と重なる景色もそうだし、なにより今回は迎え入れてくれる人がいる。臼杵で飲食店を営む安野さんとは昨年の旅で出会った、というよりたまたま知り合った。夕食をともに。竹藝に興味を持ち取材してきた経緯を伝えると、思わぬ返事が返ってきた。近くのお寺に人間国宝が手がけた竹天井の茶室があるという。「そのお寺の息子が友達だから一緒に行ってみない?」もちろん。行きすがらに出会う情報、その精 度の高さを信じている。二言返事でありがたく、翌日のアテンドをお願いした。
臼杵の城下町に佇む「見星禅寺(けんしょうぜ んじ)」。裏庭の茶室に招かれ、瑞々しい新緑を前に天井を煽り見る。網代張りの構造が引き立つ、趣のある竹の表情。 別府に生まれ、大正、昭和を生きた故人間国宝、生野祥雲斎による工芸のあり方。その時と人となりに想像を巡らせる。突然の来訪への感謝とともに、竹藝に惹かれる経緯とインスピレーション。明日は自分のお墓がある、願成禅寺に向かうこと。穏やかに頷く住職は驚きの告げを知らせた。「実は私の息子は、願成禅寺の娘さんと婚姻関係に。願成禅寺の跡取りになります」。
あ然
そんな偶然があるのだろうか。たまたま出会った地元の方と、たった今、敷居を跨いだお寺の茶室で。幾多の縁からここで今、血縁に繋がろうとしている。これから尋ねる私のルーツがある場所に。現代、6者を介せば全員と繋がるという説もある。感性や感覚が似ればなおさら。そんな横軸の偶然を感じたことはなくはない。けれど、伝統、継承、血縁。時代を超えた縦の軸が交わればただ、あ然とする。愚渓和尚に呼ばれている。偶然にあ然。それが私にとって必然であると知ることに、さして時間はかからなかった。「ちょうどこれから、願成禅寺から息子を迎えにきます。あなたもご一緒にどうぞ」。
愚か者だ
一年ぶりに訪れた願成禅寺。あるべき場所に変わらずに、毅然ととどまる愚渓のだるま。ことの成り行きに笑みを重ね、現住職への拝聴、談話の時は4時間にも及んだ。愚渓和尚の生涯。大叔父とともにあった時代の背景。風土と文化。先祖を敬うこと。そして、お墓を守るということ。「あなたの親族は愚か者だ」その歴史を断とうとした私の家族に、住職は愚直に答える。この寺の伝統を、私自身も誇らしく感じている。それは生まれついてのステータスではない。今を生きる、思慮を導き、感受性を開くエッセンスであると。「今ここに私とあなたがあること。その関連性を誇らしく思うんです」。
生かすも殺すも
「センスは教養の積み重ねです」。ファッションとともにある私の身の上からか、住職はさらに続ける。センスは誰でも持っている。感覚、感受性。それを生かすも殺すも教養次第。では、教養とは。情報は誰でも手に入れられる。経験や検証を経てインプットすることで、それは自らの知識になる。知識を得てこそわかる価値があり、情報への視点は深度を増す。さらに掘り下げる。それぞれの知識とともに歴史のなか、文化、風土に根付く関連性をつくっていくことが教養。伝統という縦軸があればより、関連性の裾野は広がる。導かれた歴史を敬い、その価値と向き合い、私は墓を守ることを決めた。令和の今にロマンを探す。これから続く旅のテーマに。教養の指針に。ひとつの軸を定めた。